森進一 歌声の底から魂の破片が零れ落ちる歌手

歌手 森進一さんの魅力について綴ります

扉を開いて行くべき歌

先日来、阿久悠さんの著書「愛すべき名歌たち -私的歌謡曲史-」と「歌謡曲の時代 歌もよう 人もよう」の2冊を読んで、阿久さんが森進一さんに提供したご自身の作品について語る言葉の数々に私は強く惹きつけられました。というのも、『冬の旅』『さらば友よ』『北の螢』などが阿久さんの作詞であることは知っていましたが、お二人の関係は一作詞家と一歌手のごく一般的な淡白な関係だと漠然と想像していたのです。ところが、阿久さんが森進一という歌手や森さんのために書かれた詞について語る言葉には時にハッとするほどの熱い思いが籠もっているように感じます。その典型的な例は1984年に紅白歌合戦で森さんが歌った『北の螢』についての発言ですが、「歌謡曲の時代 歌もよう 人もよう」の中の「林檎抄 扉を開いていくべき歌」という章にもその思いは出ているように思います。阿久さんは、次のように書いています。

 

「 思えば、森進一の歌もずいぶん書いている。それも一つ一つかなり意欲的、言いかえると肩に力の入ったものを、プロの証明として書いてきた。

 中にはそれが仇になるという人もいた。たとえば、シンプルな流し歌の傾向のものの方が歌いやすく、心にもしみるという考えである。たぶん後援者の人たちだと思うのだが、「先生のは難しい。もっと簡単なのを書いて下さい」と直訴されたことがあるのである。

 しかし、ぼくは、時代を代表する歌手は、常に扉を開いて行く責任があると感じていたので、前作と違うものを探して懸命に書いた。それが「難しい」という評判に繋がる。」

 

「難しい」と言われたという箇所は、たとえば、『さらば友よ』の

 

「 〽この次の汽車に乗り遠くへ行くと

  あのひとの肩を抱き、あいつは言った……

と、歌い出しの2行の中に既に、あいつとあのひとと俺が出てくるというものである。」

 

という場面などを指しているのかも知れませんし、激情的な姿勢で女心を歌う若手男性歌手というデビュー以後の森さんの歩みとは異なる世界観を有している阿久さんの曲の傾向を指しているのかも知れません。でも、阿久さんが、その後も「扉を開いて行くべき歌」を書き続けられて本当によかったと思います。これは当然のことで、それ以外の選択肢はないはずですけれども…。

 

 また阿久さんは次のようにも述べています。

 

「 ぼくはぼくなりに全力を尽くした思いが強いので、森進一用の作品は好きである。『冬の旅』も『さらば友よ』も、『東京物語』も『涙きらり』も『北の螢』もそれぞれ力作で自慢に思っているが、売れ行きとしてはこれらよりもやや落ちた感じのする『甘ったれ』と『林檎抄』を特に愛している。」

 

この時期(1978年10月~)の森さんが歌った曲を順番に並べると、

1.A面  東京物語(作詞:阿久悠 作曲:川口真 編曲:馬飼野康二

2.B〃  わる  (作詞:阿久悠 作曲・編曲:川口真)

3.A〃  甘ったれ(作詞:阿久悠 作曲:サルバトーレ・アダモ 編曲:川口真)

4.B〃  みんなやさしかった(作詞:阿久悠 作曲:サルバトーレ・アダモ 編曲:川口真)

5.A〃  林檎抄(作詞:阿久悠 作曲:川口真 編曲:船山基紀

6.B〃  朝日のブルース(作詞:阿久悠 作曲:川口真 編曲:船山基紀

 

上記のようにB面の作品も書き並べたのは、実際に聴いてみると、『わる』『みんなやさしかった』『朝日のブルース』と全ての曲が印象的で、その後繰返し聞き返すことになる曲だったからです。特に、『わる』『朝日のブルース』は名曲(傑作だと言いたいくらい)だと思います。また、『東京物語』は作曲の川口真氏が初めて森さんに書かれた曲で、森さんのコンサートで最後を飾るのはいつもこの曲だということですが、私はこの曲も大変好きです。『みんなやさしかった』は、歌詞が何とも印象的です。「誰も彼もやさしかった」「傷を負った心の奥をのぞいたり誰もしない」というような内容が続き、最後は「人の愛を信じながら今日まで来た 今日まで来た ただひとりでも」で終わるのです。森さんはどのような心境でこの曲のレコーディングをしたのだろう、はたしてその後ライブで歌うことがあったのだろうか、と聴きながら幾らか切ない気持ちになります。さて、阿久さんは、ご自身「特に愛している」という『甘ったれ』と『林檎抄』について次のように述べています。

 

「『甘ったれ』は、『雪が降る』の大ヒット曲を持つ歌手サルバトーレ・アダモの作曲である。(略)

 〽涙がにがい 煙草がにがい

  夢のつづき 思えばにがい……

と嘆き、

 〽愛や恋なんか どうせピエロだと

  ふざけ合う 二人 甘ったれ……

という、少し贅沢を知ったあとの、虚無の男女の歌である。

 もう一つの『林檎抄』は、昭和53(1978)年に、川口真の作曲で出した曲で、『甘ったれ』にひきつづきの発売となっている。もしかしたら、アダモに触発されたのか、詞の形式も内容もシャンソン的である。それを意識した覚えはないのだが、よく読み、よく聴いてみると、これはシャンソンだなあと思えるのである。

 〽ひとりの女が 林檎をかじりながら 私の部屋にやって来たのは

  灰色の長雨に くさくさしていた午後でした

  不幸が土産と さびしく笑いながら ホットな酒をのんでいるのは

  その昔 少しだけ 心をかわしたひとでした…… 

 この時代、ぼくが書いていた男と女は、どこか冷めて、シラけて、虚無的で、本心を明かすことに照れているようなのが多かった。時代は豊かになりかけていた。だが、それを信じてはいない。だから入ってきた女に、

 〽何にも話すなよ 何にもきかないから……

と言うのである。 」(「歌謡曲の時代 歌もよう 人もよう」)

 

『甘ったれ』も『林檎抄』も私はとても好きな曲なので始終聴いています。どちらかというと『林檎抄』の方が森さんの声質にピッタリ合っているようにも感じますが、どちらも印象的な曲であることは間違いありません。

 

阿久悠さんは2007年8月1日に「尿管ガン」のために亡くなりました。森さんはその年のうちに阿久悠さん作詞の16作品を収録した追悼アルバム「阿久悠作品集」を発売しています。そして、

「思えば、私に書いてくださった詩の1行1行すべてが、そのまま私自身の心のつぶやき、心の叫びに重なることを歌うたびに実感してきました。」(日刊スポーツ)

と語っています。また、「あらためて2人の気持ちが深いところで通い合っていたと感じている。」という森さんの言葉も同紙には掲載されています。この1年近く、阿久悠作詞の森進一さんの歌を日々聴いてきた私には、森さんが自身の心情をそのまま語っていることをしみじみ感じます。

“聴き手をねじ伏せる”森進一の『北の螢』

 阿久悠さんが森進一さんに提供した曲の中から『北の螢』を外すことはできないでしょう。阿久さんは、1984年(昭59)の紅白歌合戦で披露した森さんの『北の螢』について、「鬼気迫る“聴き歌”」と題して次のように述べています。

 

「 「北の螢」は昭和59(1984)年に森進一が歌った、かなり凄味のある歌である。その年の紅白歌合戦で紙吹雪まみれになって熱唱した森進一の鬼気迫る姿を、今でも覚えている。大晦日、何十人かでホテルの広い部屋で小パーティを開いていたのだが、その時ばかりはみんなが酒を飲むのを休み、おしゃべりを中断してテレビに見入り、聴き入り、「凄い」とか、「スゲエ」とかいったものである。これなら聴き手をねじ伏せることが出来る。プロを見せつけることが出来ると感動したものである。」(「歌謡曲の時代 歌もよう 人もよう(新潮社・2004年)」)

 

曲の作り手から、歌唱について「聴き手をねじ伏せることが出来る。」「プロを見せつけることが出来る。」と評されることは、歌手にとってこの上ない賛辞だと思いますが、森さんのこの時の歌の迫力はその高い評価に相応しいものだったと思います。(この場面は今もインターネットで観ることができます。)

阿久さんは、この歌が誕生するまでの経緯についても述べていますが、当時の東映から直接、映画の題名と作詞の製作を依頼されたそうです。原作やシナリオを書くなどの依頼ではなく、題名だけというユニークな依頼だったにもかかわらず、阿久さんは引き受けたとのことです。

「 5案か6案か出した題名案の中から「北の螢」が選ばれ、どういうイメージかと問われるので、「情婦マノン」だと答えた。つまり、地の果てまでも男を追って行く。

「情婦マノン」が京の名妓と北海道の監獄長の話になっていることは知っていたので、

 〽山が泣く 風が泣く 少し遅れて雪が泣く……

で始まって、

 〽もしも 私が死んだなら

  胸の乳房をつき破り 赤い螢が翔ぶでしょう……

とちょっと恐い詞を書いた。

 この詞の原稿を手渡した時、作曲の三木たかしは体を震わせて興奮してくれた。そして、その興奮が森進一に伝わり、紅白歌合戦の鬼気迫る熱唱に集約したのである。

 今は故人となった五社英雄監督からは、撮影中も、歌の凄味に負けない映画を作るという手紙を貰った。

 このような圧倒的な聴き歌が世に流れなくなって淋しい。すべてが歌い歌になっている。 」(「歌謡曲の時代 歌もよう 人もよう(同上)」)

 

「聴き歌」「歌い歌」という言葉を私は初めて聞きましたが、その真意は理解できるように思います。この年の紅白で森さんが歌い終えた瞬間に拍手が沸き起こりましたが、その後は会場全体が放心状態というべきか、不思議な時間が流れているのを感じたものです。

この日の森さんを観ていて私が一番心を打たれたのは、間奏中の森さんの立ち姿でした。一番の歌が終わると拍手が湧きましたが、森さんは一切表情を変えず、何の反応も示さず、体全体で軽くリズムをとる仕種だけをしており、やがて演奏が二番に入ると、間奏時間などなかったかのように、一番と全く同じ迫力で力強く歌い出しました。完全に歌の中に没入しているのが分かりました。

 

実はこの84年は、春先から都はるみさんはその年限りで引退することを公表していて、紅白歌合戦は現役歌手としての最後の舞台でもあったのです。森さんが白組のトリ、都はるみさんは大トリを務めることになっていました。都はるみさんの方がデビューは2年程早かったと思いますが、二人は共にデビュー以来ヒット曲を連発してきましたからテレビで共演することが多く、紅白歌合戦では二人の対決は9回にも及んでいます。この日の『北の螢』がこれほどまでに見事な歌唱になったのは、都はるみさんを敬意を込めてしっかりと送り出したいという森さんの強い意識があったのではないかと思うのです。森さんは歌い終えてゆっくりと観客席に一礼した後、赤組の方を向き、「さあ」というように、右手を差し出しましたが、その静かな姿を見てふとそのように感じました。

 

その歌に観客が度肝を抜かれるような、唖然として声も出ないような場面をこの他にも森さんは幾つも作り出しています。このことについてはまた後に触れたいと思いますが、その第一の原因は、森さんが普段から歌の中に深く潜入して歌っていることにあると思うのです。その姿勢が常態であるために、森さんの心が何かの刺激や感動を覚えるような出来事が起こると、阿久さんが「鬼気迫る“聴き歌”」と表現したような、常軌を逸したかのような凄い歌唱になるのではないかと思います。だから、「昔、浅草国際劇場のリサイタルで聴いた森進一の『人生の並木道』が今も忘れられない」などという言葉をインターネットで見かけたりすると、今では知りようもない場面でさらに幾つもの奇跡的な歌唱場面が実在したのではないかと想像してしまいます。

豊かな作品の宝庫!阿久悠作詞の全69曲

阿久悠さんが森進一さんのために書かれた詞は何と69曲にも上るそうです。最初の曲は1971年の『悲恋』。『流れのブルース」という曲のB面でした。今回初めて聴いたのですが、もの凄く印象に残る曲で仮にA面に起用されていたとしても何の違和感もなかったはずです。この時期、森さんが歌った阿久さんの詞は全て森さんの育ての親といってもよいと思われる猪俣公章さんの作曲ですが、『悲恋』の後は、『放浪船』『波止場町』『夏子ひとり』と、印象的な作品が続き、次の『冬の旅』が売上50万枚超えのヒットとなります。阿久さんは、森さんの詞を書くことについて、「最初はやはりアウェイの仕事であった。ホームの感覚で書いた最初の作品は『冬の旅』で、次の『さらば友よ』は自信作であった。」(「歌謡曲の時代 歌もよう 人もよう」(新潮社2004年))と述べています。

 

1971年、テレビで初めて『冬の旅』を歌っている森さんを見た時、「ああ、これまでの森さんの歌とは全然違う。でもいいなぁ。森さんてこういう歌も歌えるんだ。上手いんだ。」という新鮮な感動を覚えました。デビュー曲『女のためいき』からずっと続いていた「腹の底から声を絞り出して女心を歌うハスキーボイスの男性演歌歌手」というイメージがきれいに拭い去られているように感じたのです。第一、この歌の主人公は明白に現代の若い男性ですからね。それは結果として、やがて発表される『襟裳岬』に多くの人が驚きながらもさして違和感を持たずに受け容れることができた要因の一つだったようにも思います。そして、『さらば友よ』。この曲について、阿久さんは、上記「歌謡曲の時代」の中で、

 

「一つの歌詞の中に三人の男女が登場する。

 〽この次の汽車に乗り遠くへ行くと

  あのひとの肩を抱き、あいつは言った……

と、歌い出しの2行の中に既に、あいつとあのひとと俺が出てくるというものである。」

 

と述べています。実は、この曲は、1974(昭49)年に森さんがレコード大賞と歌謡大賞を獲得した『襟裳岬』の次回作でした。『襟裳岬』は『冬の旅』と『さらば友よ』に挟まれて発売された曲だったのです。

『さらば友よ』に続く曲もやはり阿久悠作詞・猪俣公章作曲による『北航路』。この曲も私は大好きで、よく聴きます。

 〽冬に旅する女の哀れを

  あなたはきっと知らないでしょう

という静かな歌いだしで始まりますが、何度聴いても新鮮さを感じさせる曲だと思います。

 

『森進一 COMPLETE BOX』がもつ力、そして阿久悠氏が語るデビュー曲『女のためいき』

20代の昔からファンであった歌手の森進一さんについて昨今感じることが多々ありまして、そのあれやこれやについてこれから書いていきたいと思います。森さんに幾らかでも関心のある方に読んで戴けたら嬉しいです。

 

実は今年に入って森進一さんの「歌手生活45周年記念『森進一 COMPLETE BOX』」を購入しました。このBOXには森さんが1966年に『女のためいき』でデビューして以後の45年間のCDシングル盤がA面B面ともに全て収録されています。

初めに代表曲として12曲が並んでいます。01おふくろさん、02女のためいき、03命かれても、04盛り場ブルース、05花と蝶、06ひとり酒場で、07年上の女、08港町ブルース、09襟裳岬、10新宿・みなと町、11冬のリヴィエラ、12紐育物語、と森さんのファンにとっては馴染み深い曲ばかりです。ところが、私は、デビュー曲「女のためいき」が流れ出すと瞬間気が遠くなってしまいました。もう20年かそれ以上、聴いていなかった曲のせいか、18歳の森さんの若々しくも凄味のある歌声に一撃されて身体(脳?)がショックを受けたようなのです。

それから順番に聴いていったのですが、200曲余のシングルのうち聴き覚えのある歌は5分の2程度でした。B面できちんと知っていた曲は「夏子ひとり」「妹よ」くらいだったでしょうか。でも、B面を含めたほぼ全ての曲が私にはとてもとても魅力的で、その日から完全にこのBOXに、つまり森さんの歌声に心を奪われてしまいました。

これまでも好きな歌手の名を訊かれればいつも「森進一」と判を押したように答えてきたのですが、漠然と自分が抱いていた森進一の世界が曲を聴く毎に豊かに大きく膨らんでいき、収拾がつかない気分に陥ってしまいました。

自宅で家事をしながら、買物に行く道すがら、湯船に浸かりながら、毎日森さんの歌を聴いていたのですが、そのうち歌手・森進一についてこれまで人が具体的にどのようなことを語ってきたのか、とても気になってきました。もちろん、長い間にはテレビや雑誌や新聞の書評欄などで森さんの歌について述べられた言葉は折に触れて目にしてきてはいたのですが、もうそれだけでは我慢できなくなってきたのです。多分、新たに聴いたB面の曲の数々によって森進一という歌手が抱えている世界の更なる底深さを知ってしまったと感じたことが大きかったようです。そこで、公立図書館や古書店で歌謡曲や演歌について書かれた書籍を探し出し、あれこれ読んでみると、森さんについて書かれた文章は質量ともに想像以上に豊富で、その内容に感動したり、刺激を受けることが数々ありました。これからそれらについて紹介旁、自分の感じたことをも書いていきます。

 

まずは、最も直近に読んだ作詞家の阿久悠さんの文章です。「愛すべき名歌たち -私的歌謡曲史-」では、阿久さんが森さんのデビュー曲『女のためいき』を初めて聴いたときの印象が当時の世相を背景に描かれています。当時、阿久さんは多忙な放送作家で、その仕事にやや疲れ、飽きてもいた時期だったそうですが、以下にその文章を引用します。

 

「 森進一が『女のためいき』でデビューしたのが、昭和41年6月20日、その9日あとに、あのザ・ビートルズが来日して、首都はあたかも騒乱状態になるのだが、このことに直接の関連はない。

 あるとするなら、時代はグループサウンズからフォークソング・ブーム、ついにはご本家ザ・ビートルズまでやって来るということで、明らかにポップス志向、演歌にとっては逆風の最中になっていたことは確かである。

 

 〽死んでもお前を はなしはしない

  そんな男の 約束を

  嘘と知らずに 信じてた ああ

  夜が 夜が 夜が泣いてる

  ああ 女のためいき……

 

 この歌を最初に耳にしたのは、深夜のラジオである。半睡状態でタクシーに乗っていたので、誰の、何という歌かもわからずに、いきなり、〽死んでもお前を……という、おぞましいとも思える声の響きに目を覚ました。「誰? これ?」と運転手に慌てて尋ねたが、彼もぼんやりしていたのか、「さあ」と答えただけだった。

………(略)………

 それはそれとして、森進一の「女のためいき」は、チラチラと漂い始めた幸福感のようなものに、冷水を浴びせるような衝撃があった。日本という国が無理して振る舞っている明るさに、暗いところから呼びかけられた気がした。

 タクシーの中では、歌手名も曲名もわからなかったが、やがて知ると、ぼくは、レコードを買った。気取っていたわけではないが、モダンジャズソウルミュージック以外のレコードを買うことは珍しかった。

 そして、何度も聴いた。聴けば聴くほど、正体を知りたくなる歌である。一体、この声と歌唱法は、誰に似ているのだろうと考える。日本の歌手にはいない。

 突飛な考えだが、黒人歌手ではないかとさえ思う。ルイ・アームストロング、「泣き男」のジョニー・レイとも違う。さて、誰か。

 結局、森進一の歌が最も近いのは、「ハーレム・ノクターン」などで知られるテナーサックスのサム・テーラーの演奏であると気づいて、落ち着いた。森進一の詞を書くのは、まだ先のことである。 」(「愛すべき名歌たち -私的歌謡曲史-」(岩波書店1999年))

 

阿久さんは本当に耳が研ぎ澄まされた方なのだと思います。そう言われてサム・テーラーの演奏(曲は『盛り場ブルース』でした)を聴いてみると、素人目にもこのテナーサックスの音色と森さんの歌声とは異質であるとは感じられない、どこか似通っているように思えます。

さて上記の阿久さんの文章は、森さんのデビューがビートルズ来日の9日前だったこと、世はポップス志向、演歌にとっては逆風の最中にあったことなど当時の世相も含めて私には興味深かったです。それから、巷間「森進一は曲に恵まれている」という声を聞くことがありますが、森さん特有の声や表現力が作詞家や作曲家など曲の作り手側の関心を惹くのだということも、阿久さんの上記の文章からそこはかとなく読み取れるように思います。